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草の頭窯
青山双渓
「多くの人は自分が選んだ道を追うことに執着している。目的を追っている者などごくわずかだ。」
フレデリック・ニーチェ
ニーチェの言葉にあるように、キャリアを追求することと目標を追求することは違います。私はこれまでたくさんの人に出会ってきましたが、その多くは前者で、後者に当てはまる人はほんのわずかです。私の友人でもあり、陶芸の道を極めている青山双渓氏はその数少ない人の一人です。
初めて彼に会ったときのことをよく覚えています。多治見市高田町の陶器祭りのテントの中、彼の窯で作られた商品を所狭しと並べた机の向こう側から、彼は不思議そうに私を見ていました。私はかさばった体の北欧人、彼は小柄な白髪の日本人で、私はかなり対照的に見えたのでしょう。幸い彼は私の妻と知り合いだったので、窯を見においでと声をかけてくれたのです。
白天目:青山双渓氏による作品
その後しばらくして、私の家から程近い彼の窯に訪ねる機会がやってきました。そこで彼は古い時代から伝わる焼物のかけらについて話し始めました。これこそ彼が人生をかけて再現に取り組んだ焼物だったのです。彼はその焼物を解明するのに心血を注いでいました。その夏の間、彼のところに30回ほど通い(本当に30回です!誇張じゃありませんよ!)、私はついに彼をテーマにした記事を2本書き終えました。
青山氏は、このタイプの抹茶碗は、私たちの住んでいる小さな集落、小名田で作られていたのではないかと推測し始めました。その後発掘調査があり、この地にかつてあった窯跡より、日本でも有名な焼き物に同じタイプの焼物が発見されたのです。そのニュースが報じられ、青山氏はライフワークとなるプロジェクト〜白天目の再現〜に着手したのです。
これは彼の生涯の仕事において極めて重要な部分となります。ニーチェの言葉で言えば目的を追うといった感じでしょうか。その抹茶碗の持つ美しい佇まいや希少性だけでなく、そこに秘められた物語も大切であるという彼の思いを切に感じました。その物語は小名田の地の白い粘土から始まり、小名田にかつてあった窯で焼かれ、名だたる武将や高僧たちの手を経て、何世代にも渡って現代に至るお話です。
最初に訪ねた時、青山氏は茶道具を用意し、自身の作品である白天目でお抹茶を点ててくれました。私はそんな貴重な抹茶碗で出され、手が滑って落としてしまうのではないかと気が気じゃありません。そんな私を見ても、彼は動じませんでした。彼はそのような大事な抹茶碗でも、普通ににお茶を飲むための道具かのように扱っていました。物はただの物であり、所有欲を排除したような彼の態度は禅の精神にも通じることでしょう。しかし、私が禅についてどうこう言っても仕方のないことでしょう。結局のところ、禅は説明や解釈をしないという考え方ですから。
それにしても、青山家はこの東洋哲学と深い関係があります。青山氏の父である
青山禮三氏
は多治見市にある禅寺、永保寺のために多くの仕事をしました。禮三氏は絵付け師で、彼は仏教をモチーフにした作品を多く残しています。
永保寺の庭園にある陶器の灯籠。永保寺は小名田町から2km離れたところに位置する。
また、彼は永保寺の天井にも絵を描いたそうです。時間が経つにつれて、禮三氏はますます禅の道に傾倒していきましたが、彼はそのことをあまり口に出さなかったといいます。青山氏は彼についてこう語りました。「禮三は言葉数の多いタイプではありませんでしたね。しかしながら、彼は自分の研究にたくさん時間を使っていましたよ。」禮三氏は名の通った芸術家であり、多治見市より無形文化財保持者に認定されています。そんな父親の下で働くのは大変だったのではないでしょうか?
青山禮三氏による絵付けが施された大皿
「いやいや、全くそんなことはありませんでしたよ。私はこの道を強いられるようなことはありませんでした。禮三は土屋(方言:焼物のための製土業)に勤めていましたが、兼業で焼物作りを始めました。私は5、6歳の頃から毎日彼の仕事場に遊びに行っていました。その辺りの子供たちは親がみんな焼物の仕事に従事していたので、お互いによく知っていました。「おい、禮三の息子がおるぞ!」なんて言われたりしましたね。
私はその時小学生でしたが、みんなのお父さんたちの窯焼作業を見て、自分も窯焼になりたいという気持ちを抱くようになりました。父親はそんな私を見て、色々と教えてくれました。私はもちろん毎日学校に通っていましたが、先生の話していることにあまり興味が湧かず、窓の外を眺めて、今日は1羽、2羽、3羽、4羽・・・なんてカラスの数を数えたりしてばかりいましたよ。」と青山氏は笑いました。「学校が終わると、父親の仕事場に行き、ろくろをひいているのを見ていました。私は同級生とあまり遊びませんでしたね。その代わりと言ってはナンですが、私の興味は粘土に向いていました。」
彼は微笑みながら続けます。「あなたもわかってきたと思いますが、私は学校での勉強には熱心ではありませんでした。中学校を卒業する時、私が入れる高校は一つもないくらいだと先生に言われましたが、たった一つだけありました。それは岐阜県が運営する職業陶芸専門学校だったのです。なんとか入学でき、また幸いにも京都から来ている先生もいました。私はそこでろくろをやってみましたが、どういうわけかすぐに形作ることができました。」と彼は言って、両手でろくろをひく仕草をしながら「こういうふうにね。」と話を続けました。「京都からの先生の興味をひいたのです。そうしたらその先生は『君は才能があるよ。君にろくろを教えましょう。』と言ってくれ、そのおかげで3年間その学校で勉強できたのです。その間粘土や釉薬、焼き方など色んなことを学びましたよ。」
茶道具:青山双渓氏による作品
「さらに、隣の土岐市に陶磁器研究センターがありました。そこの学生たちはみんな素晴らしい才能と技術を持っていました。何人かは美術大学を出ており、私と同じような環境で育ってきていました。また日本でもトップクラスの教授の息子もいましたね。本当に色んな人がいて、焼物を勉強するには最高の環境でした。彼らは時々私に『青山くん、いい物を見せるからこっちにおいで。』と声をかけてくれ、研究ノートやなんかを見せてくれたりもしたので、それを一生懸命ノートに写しましたよ。専門学校を卒業した後は、父親と一緒に自分たちの窯を作り、それからは焼物が人生の中心となりました。少年時代に抱いた焼物の道に進みたいという気持ちが私を突き動かしていたのでしょうね。」
蛙:青山禮三氏の絵付け作品より
父親の禮三氏からはどのような影響を受けたのですか?「まあ、彼は人の意見でどうこうする人ではなかったですね。彼は自分自身の哲学を持っていましたよ。ある時、彼は絵付けだけに集中すると決めました。」仏教は禮三氏の作品に大きな影響を与えたようです。「かつてお寺は今日で言う学校のような役割があり、父はその教えを熱心に学んでいました。彼はお酒が好きでしたが、人生にその教えを生かしていましたね。お寺の仕事をするようになって、そう言うふうに考えるようになったようです。」当時の首相である田中角栄がロッキード事件に巻き込まれた時、禮三氏はその事件を風刺した絵を描いたそうです。
禮三氏は自分の作品がどう見られるかと気にしなかったようです。田中角栄首相がロッキード事件のスキャンダルで騒がれていた時、彼はその事件を風刺した絵を描いたそうです。「普通の職人はこんなことはしないと思いますがね・・・。父は仏教の公案を深く勉強し、全ての人から答えを見出すようにしていたと思います。」と青山氏は笑いながら言いました。公案は理屈で答えられないような問題により、禅の精神を究明し、悟りに近づくための修行です。
「禮三の描いた絵付け作品の中で、ウサギが猫を投げ飛ばしているものがあります。それが何を意味するのか聞かないでくださいね!私は禮三ではないので、彼の真意は分かりません。結局のところ、禅は分析も説明もされるべきではないと思います。彼はただ一つこう教えてくれました。『焼物をどうやって焼いたらいいか分からない時は、窯から焼物を出して自分の前に一列に並べてみなさい。それを一つづつじっくりと見て、どうするか考えなさい。』本当に教えてくれたのはこれだけなんですよ。」と青山氏は微笑み、話を続けました。「彼はただの一度さえ、私にこう作れ、ああ作れと言うことは無かったですね。とにかく、私は焼物の形を作る人で、彼は焼物に絵を描く人でした。確かに私も絵を描くべきかなと時々思いますが、50年もろくろをひいてきたので、とても出来ないですね。だから私は絵筆を取らないことにしているんですよ。」
青山双渓氏による白天目
青山氏は焼き物は単純に形を決めるだけではないと感じています。「私にとって大切なことは、作品に込められた考えや理想なんです。例えばここに100個のカップが並んでいるとして、誰かがその中の一つ・・・例えば私の作品を選んだとしましょう。そこに大きな違いはないのですが、確かに違いはあります。このようにたくさんの中から手に取られるようにするというのは、焼物やその他の工芸品でも真の芸術があるかないかなのです。これが私の作品の白天目には欠かせない要素となっています。その形はシンプルですが、作るのは本当に難しい。素人には分からないかも知れませんが、一部の人はそれを手に取り、すぐその中の一部分に気がつきます。ある人は私が持って行った白天目を見て、その器の縁について尋ねてきました。『下からずっとうまくいっているのに、なぜ縁の部分でためらったのですか?そこ以外はとても綺麗に出来ているのにね。』彼が茶碗を通して作り手を見、そしてまた、彼の興味をひいたということで、私は自分のやり方は間違っていなかったと分かりました。全ての白天目にはそれぞれ気持ちが入っています。形を見るだけでは分かりませんが、そこには作り手の考えと理想があるのですよ。」
白天目を再現するという夢は突拍子もないように見えるかも知れません。5世紀にわたって誰一人として成功していないのですから。青山氏はそれについてこんなふうに語りました。「何度も試行錯誤しましたが、どうにもうまく行きませんでした。もっと技術が上達すれば出来るだろうと思っていましたが、どうやら違うようだと感じるようになり、最終的に私は完全に違う、今はない方法でやらなければいけないのではないかという結論に達しました。ある専門家と話していて、彼が冗談まじりに『当時の陶工は紐積みで作っていたと聞いたことがある。』と言ったことから何となく気がついたのです。それは私にとって悟りの瞬間でした。本当の悟りというものは、無関係だと思っていたものが、突然真実へと繋げるのです。私は家に帰り、紐積みで山茶碗を作ってみました。そうしたら、いとも簡単に成功したのです。」
『彼』はお寺の池で泳ぐ鯉のようです・・・
私は青山氏について、言葉に出す以上のことが彼の心の中にはあるような気がしてなりません。現代に技術も伝わっていない焼物を、材料、作り方から解明し、再現するために数十年を費やすことは、経済的な部分でも平坦な道のりでは無かっただろうと思います。彼を思うと、永保寺の池で泳ぐ鯉を思い出します。青山氏を知れば知るほど、彼の穏やかな態度に隠された、目的への情熱を感じさせられます。それはちょうど静かな水面下でゆったりと泳ぐ鯉のようなのです。鯉にはまた力強さもあります。餌を撒いた瞬間に、あちこちから寄ってきて、ゴボゴボと水を沸き立たせます。青山氏の白天目再現への研究は、彼の優しい笑顔の下にじっと忍耐強く続けられていました。ある日のニュースで、伝世の白天目と同じ種類の焼物が小名田から発掘されたことが報じられ、その白天目の再現は、幻想から生涯にわたる頑固な追求へと変わって行ったのです。
青山氏は筋金入りの陶芸家でもありますが、彼の人生には他の楽しみもあるんですよ。ある夜、彼は多治見の作陶施設で行われたカントリーミュージックのライブパーティに誘ってくれました。参加者たちは自分自分で食べ物や飲み物を持ち寄り、みんなでシェアして楽しみます。プレイヤーも次々と交代し、もちろん青山氏もステージに上がり、バンドのベースとして参加していました。
「私は釣りをはじめいろんな趣味をやってみましたが、音楽以外全部続きませんでした。音楽は飽きることが無かったのです。それで良かったことは聞く力が上がりました。例えば英語は話せませんが、音楽で耳が良くなったおかげで、英語で話していることがなんとなく分かるようになりました。若い頃は商店街を歩いている時、いつも女の子を連れてるねなんて言われ、悪い気はしませんでしたが、この年になって一番幸せだと思うことは、歩く道、すなわち追求していく目標があることでしょうね。この焼物のように。」と言って、彼はテーブルから作品を一つ手に取りました。
青山氏が解明に3年かかったという焼物のひび
青山氏は先ほど取り上げた抹茶碗の側面を指差し、話を続けました。「このひびを見てください。これがどうやって出来たか分かるまで3年かかりました。このひびは茶碗の美しさを引き立たせますが、わざと作っては美しく見えません。自然に見えてこそ美しいのです。こういうことがさっき話していた目標ですね。」
最後に青山先生のゴールは?と聞いてみました。「こんなことを言ったら、私の妻は怒るかも知れませんが、限界に近づくよう鍛錬していくことでしょうね。私の父の禮三は亡くなる前、こんなことを言いました。『お前が私の歳に達するまで、まだ27年ある。その時間を上手く使える方法を考えなさい。』この言葉を聞いた3年後に亡くなりましたので、私が彼と同じ歳まで生きられるとしたら、あと24年残っています。この残された肉体と精神を、完璧に近づけるような焼物への追求に使い果たしたいと思っていますよ。これは私の人生のテーマでもあります。」
おそらくニーチェも彼の生き様に頷いてくれることでしょう。
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