古い時代のネットワーク
白天目が生まれた背景について
ハンス カールソン
偶然というものはどうやって起こるのでしょう?そしてその偶然は白天目の出現にどう関わっているのでしょうか?
小名田の地は多治見市にある小さな集落です。ここは通り行く人の注意を牽くような所ではありません。交通量が多く、たくさんの車が小名田の道を通り過ぎて行きます。立ち寄る場所と言えば、ガソリンスタンドやコンビニエンスストア、小さな食堂があるくらいで、多くの車は赤信号で一旦止まるだけに見えます。
この町に偶然が起こらなかったら、おそらく歴史の霧に紛れ込んでしまっていたことでしょう。様々な歴史が繋がり、この町は日本の陶磁史のなかで注目を集めることになりました。それはここで採れる白い粘土に関係しているのです。
この町に偶然が起こらなかったら、おそらく歴史の霧に紛れ込んでしまっていたことでしょう。様々な歴史が繋がり、この町は日本の陶磁史のなかで注目を集めることになりました。それはここで採れる白い粘土に関係しているのです。
現在日本で大名物として知られている白天目は3つあります。その中の一つ、かつて尾張徳川家が所有していた白天目は、どこでどう作られたのかはっきりとしていませんでした。
近年の発見により、小名田は白天目という日本特有の焼物の起源であることが分かりました。筆者にとって、これは小名田の一番興味深い部分でもあります。この地は一見なんの特徴もない地方部の町ですが、ここには住んでる人だけでなく、ほとんどの人にまだ知られていない歴史が息づいています。小名田特有の白い粘土で作られた焼物の発見により、この町の名前は日本の陶磁史にしっかりと刻まれることになりました。
近年の発見により、小名田は白天目という日本特有の焼物の起源であることが分かりました。筆者にとって、これは小名田の一番興味深い部分でもあります。この地は一見なんの特徴もない地方部の町ですが、ここには住んでる人だけでなく、ほとんどの人にまだ知られていない歴史が息づいています。小名田特有の白い粘土で作られた焼物の発見により、この町の名前は日本の陶磁史にしっかりと刻まれることになりました。
草の頭窯のあるこの町を紹介しようと思った時、最も面白い部分は、広がりを持った環境や状況であると思いました。それは日本各地や海の向こう側まで広がる歴史上の出来事と人々のネットワークについてです。短い文章ですが、歴史の中で何があったのか、少しお話ししたいと思います。
まず、中国に存在した唐王朝に遡ってみましょう。(ここからは時代も場所もどんどんテレポートして話を進めますので、付いて来てくださいね。)ここでは僧侶たちが人里離れた場所でお茶を収穫しています。次に宋王朝に入ると、中国仏教の主流として禅が確立されてきました。
お茶と達磨大師についての有名な物語があります。この人物の人生について多くの記述は伝説です。彼はペルシャ人だという人もいれば、南インド人だという人もいます。現在日本で知られている禅は、唐王朝時代に彼がその祖と見做されたことによるものです。伝説では彼が最初の茶の木を植えたとされています:
お茶と達磨大師についての有名な物語があります。この人物の人生について多くの記述は伝説です。彼はペルシャ人だという人もいれば、南インド人だという人もいます。現在日本で知られている禅は、唐王朝時代に彼がその祖と見做されたことによるものです。伝説では彼が最初の茶の木を植えたとされています:
「禅の道の祖である達磨僧は、嵩山少林寺に住んでいた時、壁に向かって9年間坐禅していました。ある日の坐禅中、眠気が襲い、こっくりこっくりと船を漕いでしまいました。目を覚ました時、彼はそんな自分に腹を立て、自分のまぶたを切り取り、地面に放り投げたところ、最初のお茶の木が目を出したということです。」(1)
Boss jpn [CC BY-SA 4.0 (https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0)]
ここで海を渡り少し日本の話に移ります。お寺の修行では、お茶は瞑想中に頭を整理するためだけでなく、リラックスするためにも用いられています。しかし時にはリラックスする時間を取りすぎるため、修行僧の生活ではそれを制限されることもあります。京都の臨済宗のお寺ではこの問題に対処するための規範が設けられており、臨川家訓の16項にはこのように書かれています。
「修行僧にとって、1日の終わりにお菓子を食べたり、お茶を飲んだり、軽い会話を楽しむのはとても良くないこととされています。こういった行動は特別な儀式の後のみ許されますが、そういったときでさえ、出されるお菓子の種類は2種類を超えてはなりません。」(2)
これらの規範を書いた人こそ、このお話の重要人物であります。彼は夢想漱石といい、外国の学者からも取り上げられるほど広く知られた人物です。
ずっと昔の1313年、彼は美濃国の武将、土岐頼貞の誘いを受けて長瀬山と呼ばれる人里離れた地にやって来ました。そしてその狭い秘境の渓谷に僧庵永保寺を、またその翌年観音堂を建立しました。
私はその場所がどこにあるのか時間をかけて考えてみました。美濃は私たちが住んでいる小名田町を含む地域の古い名称で、ここには永保寺と呼ばれるお寺があります。そのお寺は小名田町から数キロ離れた程近い場所にあり、禅寺として有名です。またこのお寺は古い文献に記されたように狭い渓谷に囲まれています・・・「ああ、ここだ!」と思いました。それこそ現在私たちが知っている永保寺の始まりだったのです。夢窓国師は確かにここに住んでいたのです。また、この人物は庭を愛し、永保寺の美しい庭園も設計したということも知りました。
こういった瞬間に、歴史の流れを心の底から感じるのです。私は観音堂を含むお寺の境内によく足を運ぶのですが、先日、観音堂で結婚式が行われており、初めてその中を覗くことができました。「夢窓国師もここを歩いたりしただろうな。」と想いにふけってしまいました。日本の禅の歴史の中でも本当に高名な人が自分と同じ場所にいたなんて・・・。
夢窓国師がこの地に留まったのは数年ほどだと伝えられています。新たな機会が訪れ、彼は1317年に京都に赴き、南禅寺での役職につきました。永保寺は当時まだ建設中だったので、彼は古くからの友人で僧弟である元翁本元(1282〜1332)にこのお寺の世話をするよう頼んで行きます。残念ながら元翁本元は永保寺完成の3年前である1332年に亡くなり、その全体像を見ることは叶いませんでした。この多治見市小名田町の近くに佇んでいる永保寺はこの物語のもう一つの重要な場所です。
私はその場所がどこにあるのか時間をかけて考えてみました。美濃は私たちが住んでいる小名田町を含む地域の古い名称で、ここには永保寺と呼ばれるお寺があります。そのお寺は小名田町から数キロ離れた程近い場所にあり、禅寺として有名です。またこのお寺は古い文献に記されたように狭い渓谷に囲まれています・・・「ああ、ここだ!」と思いました。それこそ現在私たちが知っている永保寺の始まりだったのです。夢窓国師は確かにここに住んでいたのです。また、この人物は庭を愛し、永保寺の美しい庭園も設計したということも知りました。
こういった瞬間に、歴史の流れを心の底から感じるのです。私は観音堂を含むお寺の境内によく足を運ぶのですが、先日、観音堂で結婚式が行われており、初めてその中を覗くことができました。「夢窓国師もここを歩いたりしただろうな。」と想いにふけってしまいました。日本の禅の歴史の中でも本当に高名な人が自分と同じ場所にいたなんて・・・。
夢窓国師がこの地に留まったのは数年ほどだと伝えられています。新たな機会が訪れ、彼は1317年に京都に赴き、南禅寺での役職につきました。永保寺は当時まだ建設中だったので、彼は古くからの友人で僧弟である元翁本元(1282〜1332)にこのお寺の世話をするよう頼んで行きます。残念ながら元翁本元は永保寺完成の3年前である1332年に亡くなり、その全体像を見ることは叶いませんでした。この多治見市小名田町の近くに佇んでいる永保寺はこの物語のもう一つの重要な場所です。
夢窓国師は野心に溢れた人であり、京都に拠点を置き、日本全国へと広がっていった臨済宗のネットワークを確立しました。今回これを書いていて驚いたことは、私が昔外国人向けのツアーガイドをしていて何度も訪れた2つのお寺が、京都の中核を担うお寺として、そのネットワークに含まれていました。その2つのお寺は、嵐山の有名な天龍寺と、苔寺と呼ばれている西芳寺で、今日巨大な観光スポットとなっています。またそのネットワークの中心となっていたのは彼が最後を過ごした臨川寺で、ここは天龍寺のスケール感と苔寺の静寂さを合わせ持った寺院となっています。
By osakaosaka - Own work, CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=8767864
時を経て、寺院のネットワークは全国的に広がり強大な力を持ち始めました。そしてそれは幕府が国を治めるためのツールとして機能し始めました。そのため、僧侶は情報を携え、活発に各寺院を往来したようです。
By Ivanoff~commonswiki - Self-photographed, CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=511050
これが小名田の地とどのように関わってくるのでしょうか?草の頭窯の青山双渓氏はこう話しました。「日本の仏教寺院は茶道と禅に通じていたので、多くの茶器を持っていました。多治見には永保寺という重要な禅寺があり、また国に広がる寺院ネットワークがありました。永保寺は京都の臨川寺と繋がっているため、京都の僧侶たちが、茶道と共に洗練された茶道具を、多治見に持って来たのかもしれません。中国の天目碗の倣いを生産する過程のどこかで日本独自の形が形成されていったと・・・、白天目はこんな風に生まれたのでしょうね。そしてそれは小名田に白い土があったからできたのでしょう。」
永保寺、多治見
これが小名田の地とどのように関わってくるのでしょうか?草の頭窯の青山双渓氏はこう話しました。「日本の仏教寺院は茶道と禅に通じていたので、多くの茶器を持っていました。多治見には永保寺という重要な禅寺があり、また国に広がる寺院ネットワークがありました。永保寺は京都の臨川寺と繋がっているため、京都の僧侶たちが、茶道と共に洗練された茶道具を、多治見に持って来たのかもしれません。中国の天目碗の倣いを生産する過程のどこかで日本独自の形が形成されていったと・・・、白天目はこんな風に生まれたのでしょうね。そしてそれは小名田に白い土があったからできたのでしょう。
時代が流れるにつれ、徐々に中国との繋がりは弱まっていきます。日本の武士が支配する戦乱の時代(1185−1568)には茶道が武将たちの嗜みの一つとなりました。抹茶の粉とお湯を大きな抹茶碗に入れ、茶せんで泡立てた苦く風味豊かな飲み物を出したのです。粉末茶は中国から来たものですが、その時中国では一般的ではありませんでした。大切なことは武士たちが抹茶碗を愛でていたという事実です!茶道が日本の文化として確立するにつれ、抹茶碗も中国風から脱却し、日本独自のものになっていきました。
ここでやっと草の頭窯のある小名田町に戻って来ます。この時期は、ここ小名田にあったいくつかの窯で焼物を生産していました。当初の技術は中国ほどではありませんでした。日本で発達した天目碗の形状は、中国とは違い完全な対称性はありませんが、お茶を嗜む人々の間で流行し始めました。村田珠光や後の千利休などの茶人たちは素朴で飾らない美しさが侘茶の精神であると主張していました。茶の湯が重要になればなるほど、和物の茶碗への要求は強くなっていったのです。
現在よく知られているように、茶道具は非常に価値のある美術品でもあります。日本で最も有名な物の中には、伝説的な茶人である武野紹鴎にかつて所有されていたとされる白い天目碗があります。白い土で作られているということで非常に稀な物であり、白天目と呼ばれています。青山氏はこの種の焼物に適した白い粘土が小名田のものではないかと推測していました。そしてさらに、武野紹鴎の所有していた白天目の起源は小名田であったのではないかとも考えていました。数奇な運命を背負っている白天目は果たしてここで作られたのでしょうか?
当時の職人たちは芸術のために焼物を作っていたわけではなく、顧客からの要求に応じたものを作っていました。小名田の白い焼物は、寺院のネットワークを通して要求があったのでしょう。周りが持っているものと違う焼物を望んだ裕福な人もいたのでしょう。そういった過程を経て、日本独自の新しい形に進化し、大名物と呼ばれる白天目になっていったのは想像に堅くありません。
青山氏は白天目を再現し、伝世の白天目が実際に小名田で作られたという証拠を探し、追求することに人生を捧げてきました。何十年もの試行錯誤のあと、彼の理論は一般に広く受け入れられました。
しかし、そのお話はまた今度にしましょう。
青山氏は白天目を再現し、伝世の白天目が実際に小名田で作られたという証拠を探し、追求することに人生を捧げてきました。何十年もの試行錯誤のあと、彼の理論は一般に広く受け入れられました。
しかし、そのお話はまた今度にしましょう。