美濃のやきものの歴史は8世紀の頃、須恵器が東濃地方で焼かれたことに始まっている。産業としてのやきものの生産は10世紀の頃から中世の灰釉陶が生産されており、多治見市内に於いては多治見市西部の北丘町や姫町で灰釉陶器の古窯跡の発掘調査が行われ、窯跡の確認がされている。やがてこの灰釉陶器は釉薬を人為的に施さない無釉陶器に姿を変えて多治見市全域に拡がり鎌倉時代、室町時代末期まで生産がされてい
る。
15世紀の末期には窯の型式も改良され従来の地下式の穴窯から地上式の大窯に変化してきました。この 窯は無釉の山茶碗とは異なり木灰や鬼板(酸化鉄)などを使用した釉薬を施したやきものが生産されました。15世紀末期に生産された製品の器種にはスリ鉢、鍋、皿、碗、鉢、などの生活用品等のほかに当時の富裕の間で流行していた唐物の製品の倣製品をつくり和物での喫茶道具、華瓶、天目碗等を生産をしていました。なかでも特筆できることとして美濃で最初につくられた大窯、16世紀初頭に操業していた小名田窯下古窯跡で、侘び茶の創始者で武野紹鴎が取り上げた和物白天目を生産した窯であったことが1995年の調査で確認されています。
この後、16世紀後半の大窯での茶陶生産は瀬戸からの工人の美濃への移動によって美濃桃山陶の生産が始まり、黄瀬戸、瀬戸黒、志野、織部などのやきものが生産されています。やがて17世紀にはいると茶陶の生産は廃れて生活雑器が焼かれました。18世紀後半には九州有田の磁器を真似た染付磁器の生産が始まり現在は多様な焼き物の焼かれる陶産地となっています。
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15世紀の末期には窯の型式も改良され従来の地下式の穴窯から地上式の大窯に変化してきました。この 窯は無釉の山茶碗とは異なり木灰や鬼板(酸化鉄)などを使用した釉薬を施したやきものが生産されました。15世紀末期に生産された製品の器種にはスリ鉢、鍋、皿、碗、鉢、などの生活用品等のほかに当時の富裕の間で流行していた唐物の製品の倣製品をつくり和物での喫茶道具、華瓶、天目碗等を生産をしていました。なかでも特筆できることとして美濃で最初につくられた大窯、16世紀初頭に操業していた小名田窯下古窯跡で、侘び茶の創始者で武野紹鴎が取り上げた和物白天目を生産した窯であったことが1995年の調査で確認されています。
この後、16世紀後半の大窯での茶陶生産は瀬戸からの工人の美濃への移動によって美濃桃山陶の生産が始まり、黄瀬戸、瀬戸黒、志野、織部などのやきものが生産されています。やがて17世紀にはいると茶陶の生産は廃れて生活雑器が焼かれました。18世紀後半には九州有田の磁器を真似た染付磁器の生産が始まり現在は多様な焼き物の焼かれる陶産地となっています。